二人目の人形
 
人形がひとり去り、また人形が現れて、彼の生き方は狂っていく。
 

 
 
 
 
 
契約者、と呼ばれる者たちがいる。十年前、この東京の街を見下ろすような大きな壁が取り囲む異常領域、地獄門と共に現れた異能力者たちのことだ。元は人間だが、契約者となったときから人間的感情が希薄となり、自分自身の安全を第一に考えるようになる。能力を使った対価として自爆的行動をとらなければならないが、それは軽いものから重いものまで様々だ。
 
彼らはその強力な力と余計な感情に囚われない考え方から、兵器として、道具として利用されることが多かった。
 
彼も、その一人だった。与えられたのは空気を操る能力。コードネームはロックオン。いつの間にか契約者となり、いつの間にかある組織の一員となっていた。暗殺でも、強盗でも、それが任務なら、彼は何でもやった。その内容に疑問すら感じなかったし、汚れていく己の手にも、心は動かなかった。
 
彼はとても優れた契約者だった。戦闘能力は高く、命令には従順。そして任務は必ず成功させた。使う側にとって、これほどいい駒はない。
 
彼の瞳はどこまでも冷たく、そのてのひらはいつまでも命を奪い続け、そうして生きているのか死んでいるのか解らぬような時間を、ただやり過ごして行くはずだった。
 
―――けれど。
 
そうは、ならなかった。それは彼にとっても、組織にとっても予想外の出来事。
 
 
 
 
 
ロックオンに与えられた組織の管理する集合住宅の一室。暗い部屋の、電話が鳴る。ロックオンは慌てる様子もなく、ゆっくりと受話器をとった。はい、とすら言わずにいれば、相手が勝手に話し出す。任務の話かと思えば、聞こえてきたのは予想外の言葉だった。
 
「…死んだ?」
『正確に言えば“処分”した、明日には新しいドールを送る』
 
返事をする暇すら与えないまま、電話はプツリと切られた。
 
ドールとは、契約者と似て非なる存在で、ある媒体を通して観測霊を飛ばし、諜報活動を行う者のことだ。任務は大抵、契約者とドールを含めた少人数のグループで行われた。ロックオンにも当然、任務を共にしたドールがいた。…先ほどの電話は、その死を伝えるものだった。処分と言ったから、きっと上の者が殺したのだろう。
 
「…そうか、死んだ、のか」
 
暗闇の中、ひとりきりの部屋では、小さな呟きを聞く者はいなかった。そのときの彼の声がいくらか震えていたことは、彼自身すら気付かなかった。
 
 
 
 
 
「おまえが新しいドール、か?」
 
翌日、電話の通りにドールが現れた。まさか単体で、しかも部屋を直接訪ねられるとは思わなかったが、問うとこくり、と頷いたので、多分これがそうなのだろう。
 
「とりあえず、名前…と媒体、教えてくれるか」
「…刹那、媒体は空気」
「そうか、…頼もしいな」
 
つまりどこにでも観測霊を飛ばすことができるということだ。ドールの中では最強の部類に入るのではないだろうか。
 
「部屋は」
「隣…」
「そうか、」
 
隣室は、殺されたドールが使っていたものだ。自分で気付かないうちに、ロックオンの表情に影が落ちた。
 
「…嫌か?」
「は?」
「そういう顔をしている」
 
ドールらしくない言葉に、ロックオンは目を瞬かせた。ことりと首を傾げ、不思議そうに見つめてくる刹那は、本当にただの少年のようで、調子が狂う。
 
「…変な奴だな、おまえ」
 
思わず笑いが零れる。それは苦笑いではあったけれど、そういえば笑ったのなんて、久しぶりだった。
 
 
 
 
 
世界が闇色に落ちた。
 
出会ってすぐだというのに、ロックオンと刹那は任務に就かされていた。内容は組織幹部の自宅を護ること。相手の狙いが何なのかは二人には知らされていない。陽の落ちる頃に届いたのは、侵入させるな、殺せ、という命令だけだった。
 
街外れの豪華な屋敷の庭を、男が数人、駆け抜ける。その足元、地面に触れるか触れないかのところを、青白い観測霊が滑っていく。
 
「右から三人、左から二人…左が少し早い」
 
屋敷の玄関の前で待機していた刹那は、観測霊によって得た情報を呟くようにロックオンに伝えた。
 
「了解」
 
刹那の声にロックオンは短く返事をする。しかし扉へ寄りかかり、目を閉じたまま、敵への対策を取ろうともしない。刹那はそんなロックオンの隣で、観測霊を呼び戻していた。
 
「…きた」
 
刹那の小さな声が合図だったかのように、ロックオンは目を開く。瞬間、その瞳の瞳孔が赤く光り、青白い光が身体を縁取る。
 
飛び出してきた男たちも契約者だったようでロックオンと同じような状態になったが、ロックオンの作った風は刃のように鋭く、力を発動させる前に喉を切り裂かれ、地面に倒れこんだ。
 
しかし男たちもしぶとく、戦える状態ではないものの、何人かは生きているようだった。低い呻き声が闇の中に響く。
 
「………ッ」
 
いつものようにやればいい。いつものように、あと少し力を加えてやればいい。それで終わる。任務も、―――彼らの命も。それなのに、身体の奥を突き抜けていくこれは何だ。
 
何かがおかしいロックオンの様子に刹那が気づいて、名を呼んだ。
 
「ロックオン…」
 
睨みつけるような瞳で、ロックオンは刹那を引き寄せる。強く抱きしめられ、刹那の視界はロックオンだけで満たされた。
 
直後、先ほどとは比べ物にならない強い風が吹き荒れる。ヒュ、と風の通り過ぎる音だけが何度も何度も、刹那の鼓膜を震わせた。
 
その音が止むと同時に刹那はロックオンの腕の中から解放された。ロックオンは己の能力によってぼろぼろになった庭を見渡し、傷ついた玄関の扉にもう一度寄りかかるとそのままずるずると座り込んだ。
 
「上の奴らに叱られるな…」
 
そう言って、まるで自嘲するように笑う。身体のどこかがひどく重い。こんな感覚は久しぶりだった。
 
「………、」
 
隣に立っていた刹那が、ロックオンのように座り込み、その小さなてのひらを空中に彷徨わせた。何をするのかとそちらに目をやれば、刹那はぎこちなくロックオンの頭を撫で始めた。
 
「刹那…?」
 
ドールに、心はない。薄くなるだけの契約者とは違い、完全になくなってしまう。人格も、心も。だからドールは皆、行動をプログラムされなければ生きていけない。そのはずだ。
 
けれど刹那が今とった行動は、命令されたものではなかった。自分で考えた、ということだ。彼に心が生まれようとしているのだろうか。そして、…ロックオン自身にも。
 
「…刹那…」
 
溢れ出してくるこれは、一体何なのだろう。かつては知っていたはずなのに、欠片も思い出せなかった。そしてロックオンは身体の動くままに、慈しむようなてのひらを裏切って、刹那の手首を捕らえる。
 
「俺の対価だ、…ごめんな、許せよ」
「―――んっ…!」
 
そうやってもっともらしいことも言ったけれど、もしかしたらただ、欲しかっただけなのかもしれなかった。対価のキスは、何も唇でなくても、いいのだから。