01
 
背中ばかり、見つめてきた。
 

 
 
 
 
 
四年前の、夢を見た。
 
悪夢だった。まるで初恋の相手に告白するような気持ちで、恥ずかしいくらい緊張して、好きだと言って、…僕も好きだよなんて、笑顔で返されたあの日の夢だった。
 
今考えると、なんてことをしたのだろうと思う。あのときだって、今だって、彼とどうにかなりたいと思ったことは一度もない。ただ、傍に居続けたいと思ったときに、その意味が友人では気に入らないと、気づいてしまっただけで。…“友人”は、いつか、一番ではなくなってしまうだろうから。
 
 
 
 
 
今朝、悪夢から覚めたときグラハムは、確かに当分彼には会いたくないと思ったはずだった。忘れる、とまではいかないまでも、頭の片隅に追いやられていた恥ずかしい記憶を見せられて、当事者であるその人物に、どんな顔をして会えばいいのかわからなかったからだ。相手が何も知らないのだから、尚更。自分だけが一人で空回るのは、何度経験しても嫌なことだ。
 
「……………、」
 
それなのに、今どうして、目の前に保健室があるのだろう。あぁ、答えならとうに出ている。歩けば会える距離にいるのに、会いに行かないなんて我慢できなかった。それだけのことだ。
 
「カタギリ、邪魔をするぞ」
 
ガラリと白い扉を開けて踏み込めば、清潔さを感じさせる白が目の前に広がる。材質の関係で少々色味に違いがあるものの、壁も天井も床もベッドも白。部屋の主が使っているデスクだけがくすんだ灰色で、白の中に溶け込まず、少し目立っていた。
 
見慣れたそんな風景の中に自分を滑り込ませて、グラハムは本来生徒が使うべきベッドに腰掛けた。
 
「またスーツなんだね、体育教師なのに」
「これで十分動ける」
「そういえば、何か用?」
「…特にない、暇つぶしだ」
 
一度もグラハムをしっかりとは見ないまま、保健室の主―――保健医、ビリー・カタギリは会話を開始した。どうやら何かの書類を整理しているようだ。傍らに紙束が置かれている。作業中ならば少しは荒れそうな机の上は、いつもどおり整頓されていた。そこから少し視線を外せば、壁のコルクボードが目に入る。幾重にも折り重なって留められた小さなメモたちには、別世界の言葉が記されている。彼が本当に生きていたかった世界の、言葉だ。
 
ビリーは、二年前まで国直属の研究機関で、人工知能の研究をしていた。その優秀な脳に、皆の期待が集まる中、彼はそれに応えようと“頑張る”素振りを全く見せなかった。研究のために何かを我慢することはせず、それでいて彼は、いつだって一際輝いていた。呼吸をするように自然に新しい答えを見つけ出して、目標へと歩み寄って、周囲から賞賛を受けて。…それが彼の、本当の世界―――。
 
 
 
「君に恋人ができないのは、そういうところが悪いんだと思うな」
 
僕は全然構わないけど、ときどき、言い方が冷たいよね。終わったと思われた会話は、彼の中では続いていたらしい。ビリーはにこにこと笑いながら、そう言った。
 
「…彼女が結婚に踏み切れないのは、そういうところが原因じゃないのか」
「え?」
 
わざとビリーの言葉を真似て言い返すが、やはり上手く伝わらなかったらしく、不思議そうに聞き返されてしまう。それに、グラハムが答えないでいると、ビリーは小さく苦笑して先ほどまでとは違う書類へと目を落とした。その様子に、はぁ、と短い溜息を吐くと、グラハムはそのまま後ろに倒れて、ベッドへ寝転んだ。目を閉じて、思う。
 
鈍感。…鈍感。ただ会いにきただけだとは、どうして思わないのか。何度も何度も、嫌がらせのように通いつめているというのに。
 
しかし途中で、グラハムは考えを改めた。…気づくはずがない。ただの友人が、しかも同性が、自分に恋愛感情を抱いているなんて、普通、思わない。
 
閉じた目を開いて、グラハムはごろりと寝返りを打ち、ビリーの背中を眺めた。時折見え隠れする左手の、薬指にはめられた指輪が光る。ずきり、と音をたてて心臓が軋む。
 
こんなことをしていても、全く意味がないことは、わかっている。ビリーには、婚約までしている恋人がいる。相手の女性は背中を覆うほど長い赤い髪の美人で、ビリーの研究員時代の同僚である。四年前から交際を続けているが、一度も喧嘩をしたことがないほど仲がよく、グラハムから見てもお似合いの二人だ。ただ、彼女の希望で当初の予定より一年も結婚が遅れていて、今は結婚の時期すら決めていないらしい。
 
ビリーからそのことを聞かされたとき、グラハムは、少しだけ喜んだ覚えがある。遠くへ歩き続けていた彼が、立ち止まってくれたような気がしたから。これで、もう一度。そう、思った。
 
それでも、追いついてその腕を強引につかむ勇気もなく、まだ彼の後ろ姿を見ている。昔から、ずっとそうだった。学生時代も、学校という同じくくりの中にいても、決して越えることのできない二歳の年の差のせいで、一緒にいる時間は短かったし、卒業してからはメールや電話など、顔を合わせない交流ばかりだった。
 
そんな中で、グラハムは少し強引にビリーを引き寄せた。職を失った彼に、今の仕事を紹介して、無理矢理に己の傍に繋ぎ止めた。…本当は、彼はこんなところにいてはいけない人間だ。あんなことがなければ、今でも研究を続けていた。グラハムが決して立ち入れない、あの場所で。
 
…けれど何も、変わらなかったのかもしれない。こんなに近くにいても、こんなに遠いのだから。
 
 
 
届かない。…叶わない。彼は、自分を見ない。そんなことはわかっている。ただ、ただ―――。
 
「………カタギリ、」
「んー?何?」
 
ぼんやりと霞む思考の中、小さく呟いた呼びかけにも。
 
 
 
やはり彼は、振り返らなかった。